死の欲動は、「駆られるように繰り返され」、「自分や他人を無価値にする(無機質)」と言う行動で現れます。
これは、日常どこにでも見られます。前回、遅刻の例をあげましたが、最近ニュースの話題では、「失言」があります。
さまざまな苦労の末、やっと上りつめた地位なのに、「つまらない失言」で地位を失う人がいますね。
「あんなことを言わなけばいいのに・・・」と周りが思うのですが、昇りつめたとたんに、駆られるように失言をします。
政治家、起業家など、周りをみると結構います。社長に上り詰めたとたんに失言をしたり、大臣に上りつめたとたんに失言をしたり・・・ですね(無論全ての人がそうだとはいえませんが)。
また、傷つけあう男女。彼氏と彼女なのだから、もっと楽しく過ごせば良いのに、会うと駆られるように喧嘩をして、相手を傷つける。
これも死の欲動の働きです。
死の欲動は、生得的な(生まれ持った)エネルギーなので、それ自体は行動となって表れません。
ただ、それが育ちの過程で、死の欲動というエネルギーが発揮されやすい「装置」が作られます。
例えば、親が重要な社会的な地位に就いている場合で、家庭の関心が「子供の重要性」にまで及ばないと、子供は「ボクは重要でないのだ」という思いが無意識に宿ります。
大抵の家庭は、親が「坊や。すごいねえ!」とか言って、子供の重要性(うちにはなくてはならない)ことを伝えます。
ところが、親の重要性(出世など)に、家庭の関心が集まり、子供の重要性に関心が払われないのです。
これがないと、死の欲動が、「自分は重要でない」という形(装置)となり、子供が大人になると、死の欲動がエネルギーになって「重要になるな」と装置を動かします。
重要となるたびに、その重要性を無価値なものにする行動をとらせます。重要になったとたんに失言をして、自分を無価値(無機質)にするのです。
「死の欲動」の装置は、この「重要になったら無価値になる」という働きの他にざまざまな装置を作ります。この装置は、だいたい人間は一つ以上の装置をもっていると言われます。
次回に続きます。
死の欲動については、以下の本に簡単に説明がされています。